ユヴァル・ノア・ハラリは現代のフッサールなのか?哲学的視点から考えた「サピエンス全史」と「21 Lessons」の考察
今回は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の書いた、「サピエンス全史」について記述する。
このような社会風刺的な作品がヒットする社会と言うものは、至極、残酷な世界である。
往々にして、哲学書や、生きることに対するお話がヒットする時代と言うものは、人々の社会に対しての不満が大きくなっている年である。
例えば、トランプ当選の年などには、ジョージ・オーウェルの「1984年」という、全体主義的世界(ざっくりといえば、行き過ぎた共産主義や、独裁国家)を批判する作品が、大きく売れた。
そして今回は、筆者が気づいた、ユヴァル・ノア・ハラリとフッサール(1900年ごろの哲学者)の共通点についての回である。
- ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」のだいたいのあらすじ。
- 現象学の父フッサールと、バークリーに因る主観的観念論。
- フッサール哲学では、この世の物理法則(科学)やら宗教などは、思い込みである。
- まとめ
ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」のだいたいのあらすじ。
今回の作品は、「人類の進化は、虚構のおかげだ」と言うものである。
大昔の地上には、ホモサピエンスや、ネアンデルタール人などの人種が蔓延っていたが、その中で、生き残ったのは、私たちホモ・サピエンスだけである。
そしてその理由は、ホモ・サピエンスのみが、虚構を信じることができたからだ。
これが本書の大筋である。
もう少し砕いて言えば、沢山の人種がいた中で、ホモ・サピエンスだけは、嘘の話をつくり、それに対して吟味し、仲間内で「分かる~」とか、「なるほど!」とか平気で共感できたから、その他の嘘が吐けない人種を欺いたり排斥して生き残ることができたよ。
と言うものである。
この世界が虚構(嘘でできている)理由。
その理由とは、現代横行している科学と言うものは、誰かが定義を決めてそれに準じたものであるが、その定義自体が嘘なので、科学は嘘である。と言った形である。
例えば、イギリスでは、メートル法と言うものを使っているが、アメリカではヤード・ポンド法と言うものを使って距離を測る。しかしながら、双方とも距離の単位である。どちらかが正しいのではなく、どちらも正しいが、同時にどちらも嘘だと割り切れる。
国境と言うのも、誰かが勝手に決めたものだから嘘。さらには、社会と言う概念も、目には見えないから嘘。紙幣も、もとをただせばただの紙切れであり、嘘。
私は常々、嘘をつく人で溢れている社会なんてひどいね。なんて思ってはいたものの、そんな大昔から嘘をつくことが当たり前の社会にいたのであれば、それは仕方のないことだと言ったようなものである。本書に至っては、社会と言うものすら、嘘だと断言しているから。
「サピエンス全史」を読んで、疑問に思ったこと。反対意見。
ここからは私の勝手な解釈である。
サピエンス全史を読んだのであるが、私は、本書はかなり哲学書的な側面を持っていると考えた。と言うより、殆ど哲学書である。
このサピエンス全史の内容自体も虚構だという反論
まず、この社会が虚構であるならば、すべての物ごとの抽象的な捉え方は虚構であるということになる。この一点が私は気がかりである。
彼は、宗教は虚構であると言った。では、私たちは、何を信じてこれからの世界を生きていけばよいのか。。。
と、思ったそこのあなた。
実は、これと似たような問題に対峙した哲学者が、大昔には、居たため、彼を紹介する。
現象学の父フッサールと、バークリーに因る主観的観念論。
小難しいタイトルで申し訳ないが、大昔、いや、今でも、
「机の上にあるリンゴが、本当にそこにあると証明できるのか?」
というひねくれた問いが、哲学ではなされることがある。私が説明したいのはフッサールの論であるが、その前に一度、バークリーの論も説明しておこう。
バークリー(1700年ごろ)に因る、主観的観念論とは
大昔、1700年ごろに、バークリーと言う哲学者が居た。そして彼は、この、リンゴが本当にあるのかという問いに対してこう答えた。
「存在するとは、知覚されることである」と。
私たちは、
「机の上に、物理的に本が置いてあるから、存在するんでしょ?そいつは僕が部屋を出て行ってもなくなることはないし、ちょっと目を離したすきに足が生えていなくなることもないでしょ。だって、そこにあるんだもの。」
と言いたくなるのは分かるのであるが、彼は、
「そこにそのものが、物理的にあるから僕らが触ったり見たりできるんじゃなくて、僕らが触ったり見たりできるからそこにある(存在する)んでしょ?」
と言い始めた。
みんなは子供の時に、「部屋を出たときに、ほんとにその部屋はまだあるの?見えてないのに」と、思ったことは無いだろうか。
主観的観念論とは、そういった疑問を突き詰めた結果得られた答えではあるが、この、問いを拡張していったときに、ある疑問が生まれる。
「僕は、幼稚園のすみれ組である。昨日はおねしょをして、お母さんにしこたま怒られた。今は、幼稚園にいる。そして今まさに、便座に座っておしっこをしようとしている。しかしながら、もしこれが夢であった場合、またお母さんに怒られることになる。僕は早急に答えを出さねばならぬ。」
こういった時に、そこに便座はあると知覚しているのは確かである。尿意も感じている。しかしながら、私が、そこにいるということは分からない。トイレの個室を出たらすぐそこにサバンナが広がっているかもしれない。
ここで現れるのが、フッサール先生である。
フッサールに因る、現象学を作るまでのお話し。
フッサール先生は、すみれ組にいるあの生徒がトイレから30分も帰ってこないのが気になって、トイレに様子を見に行った。
先生は言う。
「ねー。もうお昼寝の時間だよ。トイレ大丈夫?」
僕はすかさず。
「フッサール先生、僕、考えてたの。もしさあ、この僕がここに存在しなかったらどうする?例えば、これが夢だとして、朝起きたらおねしょしててお母さんに怒られたりするのはもうころごりなの。どうしよう先生?」
「僕ぅ~。大丈夫?それは、この世界が、夢だったらどうしようってこと?例えば、自分は実は別の世界で、マトリックスみたいに培養液に浸されて、AIに熱を与えて生きているってこと~?」
「そうだよ先生。マトリックスみたいな感じ。この世界が全部嘘うそで、気づいたら、向こうの世界で瓶詰めされてコードがつながれてるの~」
するとフッサール先生は表情をいきなり凍り付かせた。トイレのドアの向こうにいる僕も、先生の剣幕は驚くほど伝わった。僕はちっぽけな脳みそをフル回転させて考える。(いけない。聞いてはいけない質問をしてしまったようだ。場を和ませる必要がありそうだ。其れとも、すぐにおしっこしてここを出るのがいいのか。しかしそうすればフッサール先生のお叱りを受けるのは目に見えている。どうするべきか。)30秒ほど経った後で、もじもじと尿意に耐えかねた僕はまた言葉を放つことにした。
「先生~。これ、夢なの~?どうなの?早くして、もれちゃう!」
「下らん質問は聞き飽きた!用を足して早く出てこい!」
フッサールの論は以上である。
阿保臭い茶番が長引いたことは、申し訳ないが、この論を難しく言えば、
「僕は、実は別の場所に居て、脳みそだけ抜き取られて生命維持用の培養液に漬けられているとしたら?これはすべて夢なのではないか?」
こういった質問に対してフッサール先生は、可成り率直に答える。
「そんなこと考えても、(向こうの脳みそだけの世界で意識が戻ったとして、その世界で、もう一つ向こうの世界があってそこで僕は脳を浸けられて…)という無限ループを繰り返すだけであり、証明不可であるから意味がない!!!」
其れと同じように、以下のような質問があったとする。
「この世界で使われている定義とか、ニュートン力学とかって本当に正しいんですか?」
フッサール先生は、これにも即答である。
「それらは思い込みである!!!!」
フッサール哲学では、この世の物理法則(科学)やら宗教などは、思い込みである。
もし私たちが、別の世界の培養液に浸されていたとしても、「リンゴがおいしい」と知覚することは、その夢の中の世界でも思っていることなので正しいことである。
こうした考えから、フッサールは、意識体験したもの(現象)を、私たちはどうやって物理法則などの思い込みに発展させていったのか。という学問体系、すなわち現象学を作り上げることになるが、
この、現代の力学などの定義が思い込みであるということを問うた結論は、「サピエンス全史」の結論とかなり似ているのではないか。
- この世のすべては思い込みでできている。
- 考える必要のないことは考えない。
そして、フッサールは、自分が主観的に意識できたもののみを正しいと考える。この点も、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書である、「21 Lessons」最後のレッスンで出てきたように、「内省すること、自分のことを分かっておくこと」に似ているのではないか。
まとめ
ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、可成り世間では取りざたされているようであるが、同じことを考えた人は、探してみれば割といるものである。
特に、フッサールは哲学者としてその道を究めた人であり、その考え方を人類進化に応用したユヴァル・ノア・ハラリ氏も凄いのではあるが、もしかしたら、人類は、この2000年間で言うほど進化しているわけでは、無いのかもしれない。
失礼する。
引用: 飲茶著(2015) 史上最強の哲学入門 河出文庫