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【哲学の歴史】プロタゴラスの「相対主義」と衆愚政治をわかりやすく解説、説明 哲学史

 

それはそれは大昔、古代ギリシャには、「本当にいいことって何だろう?」と問い続けた人が居た。

プロタゴラスの「相対主義」の、だいたいの哲学史を分かりやすくご紹介。

 

 

「考え方は人それぞれ」プロタゴラス(紀元前450年ほど)

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プロタゴラス

古代ギリシャの民主主義と、神話

大昔古代ギリシャでは、王が国を治めていたわけではなく、意外にも民主主義が発展していた。政治家をみんなの投票で選んで、その人が国の在り方を決める政治の仕方である。そしてたいていの分からないことは、神話のせいにしてすませていた。

私たちのこの日本や、アメリカ、ヨーロッパ各国は民主主義にのっとって政治をしている。私たちは今でも、ちょっと中身を良くしただけの、古代ギリシャで生まれた政治の方針と同じようなことをしているのだ。

 

そんな中、その古代ギリシャの国がどんどん発展していって、他の国々と貿易とかするようになる。すると不思議なことに、国々によって神話が違うことが判明する。

「この前大火事が起こってさ。火の神が怒ってるよ。」

と一つの国の人が言うと、もう一つの国の人は、

「いや、神様は一つだけじゃないの?」

みたいな感じである。そうして、古代ギリシャの人々は、「いままで信じてきた神話って、僕らの小さな地域だけのものだったのかも」と言う風に思いだしてしまった。

 

プロタゴラスから、相対主義の誕生

そんな古代ギリシャでは、プロタゴラスをメインとする「相対主義」と言う考え方がうまれた。それは、「考え方は人それぞれ。本当に善いとか悪いとかはなくて、みんな違ってみんないいんだよ」と言う考え方である。つまり、「何を信じるかとか、神様とかも人それぞれだよ」と言う風である。

 

プロタゴラスは、当時、弁論術の指導者としてカリスマ的存在だった。

古代ギリシャでは、民主主義の名のもと、民衆の前で討議大会(例えば「善」について、何人かが意見しあって相手を論破する)が主流だった。いい感じの言い方ができたら、みんなの支持を集めて政治家になれたのである。そしてプロタゴラスはその優雅な立ち振る舞いと、スマートさでとっても人気があった。彼の講義は大人気になり、講義に行って貰ったお金で、船が買えるくらいだったらしい。

彼の相対対義(みんなそれぞれの考え方があるんだ)と言うのは、沢山の人の意見をとるという民主主義と、うまくかみ合っていそうな感じを持つ。しかしながら相対主義にはある恐ろしさがあった。

 

「冷たい水」の捉え方。殺人は悪いことか?

例えば、「冷たい水」についての考え方である。

ある夏の暑い日の「冷たい水」は、触ってみて気持ちいいし、飲んだらおいしい。しかしながらこの夏の「冷たい水」は、北国のロシアの人にとっては「暖かい水」だ。

こんな感じで、ひとつの物について考える時、相対主義を用いると、あたかも逆のようにも言い換えることができる

 

ひとつの議題があった時、たとえば、「エレベーターで屁をしたら罪に問うべきか」と言う問題があった時、多くの人はこれを、「うん!罪に問う!」と答えるだろうが、屁をした本人が、反論で、

「屁は、生物が生まれて以来ずっと続けてきた、排泄にともなう生理現象です。これを数秒でも我慢したら、その代償は大きいですよ

と、人類視点ではなく、生き物全般の視点に立ってものを言ったら、それは確かに納得できそうと思えてしまう。

 

さらに、人殺しについても同じようなことが言えてしまう。

人殺しは悪いことのはずであるが、

「私たち日本の戦国時代には、仇討と言う概念があった。それはかたきを取るために人殺しを正当化する考え方だ。つまり文化によって人殺しは正当化されうる。さらに現代でも死刑と言うものがあるが、これは人が人を殺していることのはずだ。そして死刑囚たちは凶悪な殺人者が多い。罪を償わせるという点でこれはいいことだ

と言われるとどうだろう。さも人殺しが、文化の背景によっては悪くないことのような言い方に聞こえる。

 

こんな感じで、相対主義を用いれば、悪いことでも、あたかも良いことのように見せかけることができるのである。

 

現代にも通ずる衆愚政治ポピュリズム)を生み出した

上のような相対主義が闊歩していた古代ギリシャでは、政治家が「中身が無く、ただ討論がうまくて、民衆に耳触りのいい言葉ばかりを言う政治家」ばかりになってしまった。この政治家を扇動政治家といい、扇動政治家がする政治を、「衆愚政治」という。

いま、アメリカのトランプもその一人である。民主主義が腐敗していくと、必ず扇動政治家が現れて、衆愚政治に陥ることは、歴史のさがらしい。

こうなってしまうと、民主主義の多数決はうまく働かなくなってしまう。

 

クラスで多数決する時はだいたいみんな「どーでもいいから早く終われ」と思いながら投票していると思うけれど、それが国レベルの大きさになってしまったらどうだろう。

「みんながあの人に投票するから私も。」とか、「この前cmで見たから!」とか、「あのおじさんダンディだから」とかみんながみんな言い始めたら、その政治家の中身が分かっていないわけだから、衆愚政治が到来してしまう。

多数決はもともと、「みんながみんな、熱い議論を交わして成り立つもの」なのである。

 

そうしてその時期の、相対主義を学んだ政治家は、皆同じようなことを言うようになった。

「正義を求めろ!抜本的改革だ!」

「本当の善を成す国にする!」

とか、正義やら善やら、人によってとらえ方が大きく変わってしまうものを声高らかに叫ぶだけになってしまった。なぜなら、「人を傷つけないのが善だ!」なんて叫んでしまうと、討論のライバルたちはみな相対主義を学んでいるわけだから、「じゃあ、だれとも関わらずずっと部屋にいる人が善なんだな?」とか、「君は私をこの前の討論で傷付けたが、君に従えば君は善じゃないね」と言う風に言われてしまう。

当時の政治家たちは、論から逃げ、すきを見つけたら突くのだけがうまいものたちになってしまった。

 

 

 まとめ

プロタゴラス相対主義のせいで衆愚政治がはびこったみたいな言い方をしてしまったが、ぼくたちが相対主義から得られるものは大きいのである。

十人十色。みんな違ってみんないい。

本当に大切なことは人それぞれだという現代の哲学みたいなことが、2000年以上前に既に言われていて、そしてそこでは民主主義の政治があったなんて、すごいと思うけれど、同時に、2000年の時を経ても、ぼくたちはあまり学んでいないのではないかと悲観的にも取れる。

 

この取り方自体も相対主義だ。

相対主義は、あらゆるところに溢れているのである。

 

以上。