チョコレートブラウン

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【哲学の歴史】プラトンの『イデア』を絵で分かりやすく解説、説明 哲学史

前回は、ソクラテスの「無知の知」そして彼の死について書いた。

 

今回は、そんなソクラテスの弟子、プラトンに因る「イデア論」を説明したい。

一言でまとめると、イデア=理想像もしくは設計図」だ。

 

 

「自殺した師匠の意を継いだ」プラトン(紀元前400年ごろ)

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プラトンの図

 

プラトンソクラテスの出会い

プラトンは、政治家の貴族の出であったために、親の期待もあり、「自分も政治家になろう」と、英才教育を受けていた。

そんな中、町中の人に「~って何ですか?」と聞きまくるおじさんがいることを知る。プラトンは、その変なおじさんについていき、彼が町中にいる人に声を掛けるのを見ていた。そのおじさんこそがソクラテスである。

彼は、市民と、

ソ「善って何ですか?」

市「このまえハンカチを拾って下さったあのおじさまは真摯で優しい人ですわよ」

ソ「ハンカチを拾えば善なのですか?小汚いおっさんがそれを拾って持ち帰っても、それは善なのですね。拾っていますから。」

市「そういうわけではなくて…」

と言う問答をしていた。

 

プラトンは、このおじさんはひねくれた人だなあぐらいにしか思わなかったが、家に帰り、寝る前にそのことを思い出すと、「自分も善と言うものがなにか、答えられない」ことに気づく。

そうして彼はその、ソクラテスの弟子になるのであった。

 

 

恩師ソクラテスが、自死を選んだ

ソクラテスは毎日毎日、飽きずにいろんな人に質問を投げかけ、そして上げ足を取っていく。そんなある日、悲劇が起こる。時にそれは、民主政治が衆愚政治に変わりかけの頃で、ただ聞き心地のいい言葉を並べて、中身は何もない扇動政治家が増えていたころだった。

ソクラテスは処刑されてしまうのである。彼が赤っ恥をかかせた政治家たちが集まって、ソクラテスに冤罪をなすりつけ、死刑宣告をするに至ってしまった。

このときソクラテスは軟禁状態で、容易に逃げられはしたものの、弟子たちに命じて作らせた毒を、自分で飲んで自殺した。ソクラテスは自分の命を懸けて、本当の智を知ることの大切さを、冤罪の、そして政治のひどさを民衆に知らしめた。

 

そしてこの時、プラトンの理想「国家」への執念が始まる。

 

 

 プラトンの国家、イデアとは何か?

プラトンは著書「国家」のなかで、イデア論を展開する。それは、ソクラテスが問い続けた、「~とはなにか?」と言う問いの、答えであった。

 

 ソクラテスは、例えば、「善とは何か?」や、「美とは何か?」の答えを、「ハンカチ拾ってくれたあの人って、善だよねえ」なんて言う例示によるものではなく、「善の本質は?善のエッセンスは?」ということを知りたがっていた。

 

しかしながら、この善のエッセンスを見つけるのは途方もなく難しい。一人にとって、或る人を殺すことが善だとしても、他方の人にとってはそれが悪であることも有りうる。

もし現代にヒトラーが生きていたとして、ぼくはヒトラーの裁判を有罪にするだろうけれど、ヒトラーの熱心な信者たちにとってはそうはならない。

 

こんな風に、人によって善と言うものは大きく違う。しかしながら、それぞれの善の根底を流れる基礎的な何かは、みんな同じなんじゃないかな。そう思ったりもする。

なぜなら、人によって善は違うにもかかわらず、みんながみんな、善がどういうものかだいたい分かっているからだ。

 

だから、プラトンは、この大体みんなが分かっている善の本性を「イデア」としたわけだ。

 

イデアとは何だろう?三角形の例で分かりやすく解説

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いろんな三角形の例。

 

ここに、石と、おむすびまんと、三角定規の図があるが、これらはすべて、三角形っぽいといえるだろう。

 

でも、石とか、おむすびまんに至っては、三角形と言われるまでは、それが三角形だと分からなかった。しかしながら、言われてみれば、そう見えなくもない気がする。

何が言いたいかと言うと、上図のそれぞれは三角形からほど遠い形をしていたとしても、三角形と言われてみればそれっぽいと思うのである。

それは、みんなが、三角形のイデアを持っているからだ。

 

三角形のイデアとは、理想の三角形像であり、神のみぞ知るはずの完璧な三角形の設計図ということができる。

 

厳密な三角形は存在しない。

ぼくたちは、どんなに歪んだ三角形を見ても、「大体それは三角形ですねえ」と言うことができるが、それは、ぼくらの頭の中に、三角形の理想像がインプットされているからだ。

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三角形も、拡大してみればでこぼこのインクの染みにしか見えない

しかしながらその厳密な三角形は、頭の中にしかない。

 

幾何学の定義では、「厳密な線は、幅を持たない」からぼくらが学校で見てきた三角形は、本当は偽物の三角形と言うことになる。

 

でもぼくたちは、三角形がどのようなものか想像できる。

それは、三角形の理想像、イデアが頭の中にあるからだ。

 

イデアとは例えばどのようなものか。

実は、その辺を飛んでいるちょうちょにも、芋虫にも、人間にも、服にも。

 

この世のありとあらゆるものに、イデアはあるんだ。

ちょうちょの理想形や、芋虫の理想形、人間の理想形(すごく徳のある人かな?ダヴィデ像みたいなマッチョかな)とか、服にも理想形がある。

 

そしてそれは、国家の形にもイデアがあることを示している。

 

 

ソクラテスの死をもって、国家のイデアを目指すプラトンアカデメイアを作る。

プラトンが、著作「国家」の中で言いたかったことは、

「国が腐敗したから、大事な先生であるソクラテスは殺されちゃったんだ。国の指導者って、もっと物事が良く考えられて、国の理想像(国家のイデア)が分かっているひと、つまり究極の哲人じゃないとだめだよ!じゃないと惨劇は繰り返されるよ!」

 

と言うことだ。そこで、プラトンは、国家を運営できるほどの究極の哲人を生み出すために、大学の原型である「アカデメイア」という学校を作った。

 

そこでは、後の万学の祖と言われる、アリストテレスなんかも生まれてくる…

 

 

まとめ

イデアは、神の設計図と言われることがある。

神は、人間の本来のあるべき姿に向けて人間を作ったし、それはちょうちょにも、服にも言えることだ。

 

だから、設計図、理想形がイデアと言えば、可成りわかりやすいのではないかな。

 

失礼する。

【新型コロナ対策】ウイルスとは何かを絵で分かりやすく説明

ウイルスって何だろう。

今回は、これについて述べようと思う。

ウイルスは、一言で言えば、「ものすごくシンプルな寄生虫」だ。この定義はシンプル過ぎて物議をかもすかもしれないが、この理由を述べていこう。

 

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左がウイルスの図。上の多面体の中にDNAもしくはRNA(下で説明)があり、下のは足だ。ちなみに、歩くときの音はテクテクである。

ウイルスは生物か?

「ウイルスは生物だ!とは、言い切れない。」これを聞いたことがある人は多いと思う。

 

しかしこの根拠までは知っている人は少ないのではないか。これには、生物が生物たるための3つの根拠がある。

  1. 境界があるか?(細胞膜とかがあるか?核が、なにかで包まれているか?)
  2. 複製できるか?(DNAとかRNAがあるか?)
  3. 代謝できるか?(呼吸とか、光合成とか、ものを食べたり排泄したりとか)

この三つを満たすものが生物だ。

 

ひとつづつかみ砕いて見ていこう。

 

 

1.境界があるか?(細胞膜とかがあるか?核が、なにかで包まれているか?)

これは、その核となるものが、何かで包まれているかどうかということに当てはまる。

例えば、ぼくらの細胞は、細胞膜という膜で覆われていて、植物や、虫も同じだ。実は、ぼくらの細胞の7割は水分だから、この細胞膜が無いと、ぼくらはどろどろに溶けだしてしまう。

このような境界があるかどうかだ。

 

ウイルスは、真ん中にDNAという体の設計図的なやつを包み込んで、その外にカプシドと言われるたんぱく質を持っている。

 

つまりウイルスには境界がある。

 

細菌とウイルスは同じものか?

ちょっと次に行く前に、脱線して細菌とウイルスについて考えよう。

細菌とウイルスは、全く違う。

細菌は、生物だ。単細胞微生物と言う。

しっかり細胞を持っていて(①境界がある)、DNAを持っていて(②複製ができる)、呼吸や光合成をすることができる(③代謝ができる)。

しかし、ウイルスは、生物と非生物の間のぼんやりしたものだ。

 

だから、もし「除菌99.99999%」と書いてあるスプレーを使っていても、ウイルスまで消せているとは言えないことに注意しよう。

 

 

2.複製できるか?(DNAとかRNAがあるか?)

ウイルスは、先ほど述べた殻の中に、DNAもしくはRNAを持っている。

DNAとは、いわゆる体の設計図だ。そしてRNAは設計図のコピーである。

 普通、生物は、DNAを先に持っていて、

 

DNA → コピー → RNA → つくる → タンパク質

 

という手順でたんぱく質をつくりだして、何とか生きている。このたんぱく質の中には、酵素とか、ホルモンとか、抗体も含まれる。(ちなみにこの手順しかありえねえだろ?って考え方を「セントラルドグマ」という。)

 

しかし、ウイルスの中には、RNAウイルスという厄介者がいる。こいつは、最初から、RNA(設計図のコピー)のみを持っている。

そしてその中には、レトロウイルスという大悪党がいる。

普通は、セントラルドグマのはずだ。しかしながらこの大悪党レトロウイルスは、恐ろしく賢い。RNAからDNAが作れてしまうくらい賢いのだ。

つまりこいつは、体の設計図のコピー(RNA)だけを持っていて、原本(DNA)を作れてしまう。

 

普通

DNA → コピー → RNA → つくる → タンパク質

 

レトロウイルス(例外)

RNA → 元を想像する → DNA → コピー → RNA → …

 

と言う感じだ。レトロウイルスの代表格には、HIVがある。

 

話がそれたが、DNAウイルスは、RNAの役割もちょっとするし、RNAウイルスは、DNAの役割もちょっとする。

こうやって生きていくのに必要なたんぱく質を生み出す。

 

つまり、ウイルスも自分を複製できることはある。

 

 

RNAウイルスは、なにがやばいの?

先に行っておくと、残念ながら新型コロナウイルスは、RNAウイルスだ。

レトロウイルスではない。

 

しかし、RNA型ウイルスは十分やばい。

 

RNAウイルスは、設計図のコピー(RNA)しか持たず、こいつの仲間がちょっとDNAの役割も果たす。こうしてたんぱく質を生み出して自分を複製できる。

それに対して、DNAウイルスは、こいつの仲間がRNAの役割も果たす。

ウイルスには、DNA型とRNA型しかないことは上述の通りだ。

 

まあこの、DNA型ウイルス(設計図の原本)と、RNA型ウイルス(設計図のコピー)、ふたつ並べてみてほしい。

どっちの方が変異しやすいだろうか?

 

DNAウイルス(設計図の原本)は、原本をしっかり持っているから、かなり堅い。しかしながら感染速度は遅い。沢山のタイプに分かれづらいからだ。

RNAウイルス(設計図のコピー)は、原本が分からないから、とっても臨機応変だ。脆いわりに、感染速度がかなり早く、沢山のタイプに分かれやすいのだ。

 

これが、新型コロナウイルス(CoVID-19)がRNAウイルスなのがやばい理由だ。

 

3.代謝できるか?(呼吸とか、光合成とか、ものを食べたり排泄したりとか)

こいつらウイルスは、めちゃくちゃシンプルな体を持つ。

殻と、核だけだ。

つまり、細胞ですらないから、代謝はできない。

 

 

生物としての枠を中途半端にしか満たさないウイルス

そして、ウイルスは、こいつら3つを中途半端にしか満たさないから、「ウイルスは、生物と無生物のあいだなんて言われる。

 

待てよ?

ウイルスが代謝をしないのなら、ウイルスはどうやって生きているんだろう。

 

ウイルスはどうやって生きているのか?

先に結論を言えば、

ウイルスは、生物に寄生して、子孫を残していく。

 

ウイルスは、5000万種類以上いるが、人間に害を及ぼすのは、数100種である。その中にも沢山のタイプに分かれる。

ちなみに、植物にしか感染して悪さをしないモザイクウイルスなんてのもいるし、人に感染しても悪さをしないウイルスもたくさんいる。だから、ウイルスがすべて悪い!とは一概には言えなそうだ。

 

 

ウイルスの増え方を図で示す。ウイルスは、最もシンプルな寄生虫だ。

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ウイルス感染の仕方について。図のかくかくのがウイルスである。丸いのが細胞だ。

上図がウイルスの増え方だ。想像しただけでも恐ろしい。

解説を入れよう。

  1. こいつがウイルスだ
  2. こいつが細胞にぶすっと穴をあける。そして、自分の核となるDNAもしくはRNAを細胞に注入する
  3. 青で示した、細胞の中にもとからあったDNA、そしてRNA情報は失われる。
  4. ウイルスの核が、細胞の機能をのっとって繁殖する
  5. ウイルスが、核を守る殻をつくる
  6. ウイルスが、細胞の壁を突き破って飛び出してくる

 

まとめ

こんなものにからだを侵されたくなかったら、静かに自宅でお休みしよう。あと、良く寝て、禁煙もしよう。

新型コロナウイルスは、驚くほど進化のスピードが速く、対ウイルス薬が、無い。そこで、罹ってしまったら、肺炎なら肺炎の治療を、熱なら熱の治療をしかできない。これを対症療法という。

 

ウイルスを知って、正しく恐れましょう。

 

失礼する。

 

 

 

 

 

 

【哲学の歴史】ソクラテスの「無知の知(不知の知覚)」をわかりやすく解説、説明 哲学史

ソクラテスは、今でも哲学において引き合いに出されることの多い元祖「智の巨人」である。

哲学は、彼が捕まり、自ら毒を呑んだことで、少しずつ深淵に傾き始めた。

 

 「本当の智を求めて自死を選んだ」ソクラテス(紀元前420年ごろ)

前回(プロタゴラス)でもいった通り、古代ギリシャでは、ただ弁論の上手い人たちが壇上に上がって民衆を扇動する、衆愚政治ヒトラーなどに代表されるポピュリズム)が始まってしまった。人々は、政治に関心が持てなくなり、持っていたとしても、それは深い考えから起こるものではなく、てきとーに耳触りのいい言葉を言う人を応援していた。

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ソクラテス

そんな時に現れたのが、ソクラテスである。(ソクラテスは、一説によれば恐ろしいぶさいくだったらしい。彼の像は残ってはいるけれど、それは後世誰かがソクラテスのイメージで作ったものだ。上の絵はそれを参考にした)

 

ギリシャ一番の神殿、デルフォイ神殿でのお告げ

ソクラテスはあるとき、神殿にお参りに行った。すると、神からのお告げが聞こえた。

ソクラテス、君がギリシャで一番の賢者だ」

ソクラテスははじめ、驚いてしまった。彼は、当時の政治家たちが「正義」やら「善」について語っていたのを見て、「自分には分からないなあ」と思っていたからである。そして、彼は思った。

「ぼくより賢い人はいっぱいいる。その人たちにお話を聞いて、ぼくは一番の賢者になろう」と。

これが悲劇の始まりだった。

 

ソクラテスは、名高い詩人や芸術家に「美って何ですか?」と聞いてみた。すると彼らは、「この詩を聞き給え。この響きが美しいだろう?」とか、「この絵、これだよ。これの描写は美そのものだね」などと答えた。

そして彼は、ある将軍に、「勇気って何ですか?」と聞いた。すると彼は、「私は3番隊のシクリトスが、大群の敵に向かって突き進んだ。これを勇気としよう」なんて答えた。

ソクラテスは思った。

聞きたいのはそういうことじゃあないんだよなあ。

 

「…とは何か?」と、「~な人(ものごと)って、…だよねえ」

よくよく考えてみると、詩人や芸術家、将軍が言っていたことは、「響き方が美しい」や、「描き方が美しい」、そして「こういう人が勇気ある人だ」と言う例に過ぎない

ソクラテスが本当に知りたかったことは、「~って美だよねえ」 とか、「~って勇気あるよねえ」みたいな「~なものって…だよねえ」とか、「~なとき…を感じる」という単なる例じゃなく、「…って何?」ってことだったのだ。

例えば、中学生の女子が、「恋って何だろうね?」って友達に相談した時に、「〇くんが好きなんでしょ?それは恋してるってことだよ」と答えたとする。すると、中学生の女子はこういう。「そんなことは分かってるの!でも、恋って何か知りたいの!」

 

ソクラテスはこの時の、中学生女子と同じ方法で考えている。

 

 だからソクラテスは、もう一歩踏み込んで聞いてみた。詩人が「この詩の響きが美しいよねえ」っていうと、

ソ「響きって何ですか?」

詩「音の広がりの事だよ。」

ソ「音って何ですか?広がりって何ですか?」

詩「……帰れ!!」

 

 こんな風に、ソクラテスは、名高き詩人であっても、「美とはなにか」について答えられないことが分かってしまった。そして、みんなにちやほやされている人々って、実はなんもわかってないんだなあと思ってしまった。さらに将軍にも聞きに行った。

ソ「勇気って何ですか?」

将「また君か。私は3番隊のシクリトスが、大群の敵に向かって突き進んだことを勇気とすると言っただろう」

ソ「突き進むって勇気なんですか?」

将「相手の戦力差を物ともせず、身を捨てて果敢に立ち向かったんだからな。そりゃそうだ。」

ソ「身を捨てたら勇気なんですか?」

将「……」

ソ「将軍は、勇気についてちっともわかってないのに、みんなにちやほやされてるんですね

将「もういい!帰れ!!」

 

みんな知ったかぶりしていることが判明。

 名高い将軍ですら、勇気について答えられなかった。ソクラテスは、「実はみんな、何も知らないのに知っているつもりでいるんじゃないか?」と思い始めた。この、知ったかぶりしている状態を倨傲(きょごう)と言う。

そしてずっと質問し続けるこの小学生の休み時間のような論法を、「ソクラテス式問答法」という。答えられないのはそれもそのはずである。この時、ソクラテスは攻め側であり、詩人は受け側である。ソクラテスは、ずっと質問をしているだけでよく、受け側である詩人は、問答をずっと続けると疲れてくる。そこでぼろが出るのを待ち、ぼろが出たら上げ足をとればよい。

ソクラテスはこの方式で古代ギリシャの政治家たちにも「善とは何か?」、「正義とは何か?」と問い続けた。そして、彼はプラトンにはじまる若者たちを引き連れていくようになる。当時のやり方では、政治家たちはステージの上で対談する形式が主だったから、ソクラテスは多くの政治家たちに民衆の前で赤っ恥をかかせた。

 余談ではあるが、ソクラテスは相当なひねくれものであったらしい。しかしながら妻であるクサンティッペには頭が上がらず、「結婚するんだ。いい妻を得たら幸せになれる。悪い妻を得たら哲学者になれる」と言う名言を残した。

 

ソクラテスの「無知の知(不知の知覚)」の深い、本当の意味

ソクラテスは思った。「ぼくは、ある意味ではギリシャ一番の賢者なのかもしれないな。ぼくははじめ、自分が知っていることを認めずに人に聞きに行った。つまり、彼ら名高い詩人たちと違って、ぼくは何も知らないことを知っていた!」これを「無知の知(または不知の知覚)」という。これは、一見皮肉な態度のようにも思える。「おれはなんも知らないってことを知ってる!これは知ったかぶりする人より偉いよ!」みたいな感じだ。

しかしながらソクラテスが「無知の知」において民衆に知らしめたかったのはこういうことではなく、「ひとは皆、いつの間にか知ったかぶりをする。だから智に対してもっと謙虚に生きていこう。そして、生涯ずっと、学び続けよう!そしてみんなで考えよう!」という知識の大切さを訴えたものだった。

 

ソクラテスは、「若者を堕落させた罪」で死刑となる

ソクラテスはそうこうして若者たちの人気を集めていった。そしてある日、バッタバッタとなぎ倒していった政治家たちからの反逆が始まる。

政治家たちはみんなでグループを作って、「ソクラテスは若者を堕落させた罪を持っている!」と叫びはじめ、そしてソクラテスは逮捕されてしまう。さらに死刑に処せられてしまったのだ!

このとき、ソクラテスには政治家たちの陰湿なやり方で、敢えて逃げることはできるように、軟禁のような状態にさせられて、死刑執行の時を待っていた。しかしながらソクラテスは、死刑から逃げることはせず、政治家たちの悪行を民衆に知らしめて、「真理探究への高ぶり」を促すために、若者たちに毒杯を用意させて自ら飲んだ。

このソクラテス自死を選んだ瞬間に、世界は哲学へと、少しずつ傾き始めた。

 

まとめ

今回は、ソクラテスについて書いてみた。

 

ソクラテスは本を出していないから、実はこれらの思想は、プラトンやらソクラテスの弟子たちが、対話形式でまとめたものに由来する。次回はプラトンについて書いてみたいと思う。

 

 失礼。。

 

【哲学の歴史】プロタゴラスの「相対主義」と衆愚政治をわかりやすく解説、説明 哲学史

 

それはそれは大昔、古代ギリシャには、「本当にいいことって何だろう?」と問い続けた人が居た。

プロタゴラスの「相対主義」の、だいたいの哲学史を分かりやすくご紹介。

 

 

「考え方は人それぞれ」プロタゴラス(紀元前450年ほど)

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プロタゴラス

古代ギリシャの民主主義と、神話

大昔古代ギリシャでは、王が国を治めていたわけではなく、意外にも民主主義が発展していた。政治家をみんなの投票で選んで、その人が国の在り方を決める政治の仕方である。そしてたいていの分からないことは、神話のせいにしてすませていた。

私たちのこの日本や、アメリカ、ヨーロッパ各国は民主主義にのっとって政治をしている。私たちは今でも、ちょっと中身を良くしただけの、古代ギリシャで生まれた政治の方針と同じようなことをしているのだ。

 

そんな中、その古代ギリシャの国がどんどん発展していって、他の国々と貿易とかするようになる。すると不思議なことに、国々によって神話が違うことが判明する。

「この前大火事が起こってさ。火の神が怒ってるよ。」

と一つの国の人が言うと、もう一つの国の人は、

「いや、神様は一つだけじゃないの?」

みたいな感じである。そうして、古代ギリシャの人々は、「いままで信じてきた神話って、僕らの小さな地域だけのものだったのかも」と言う風に思いだしてしまった。

 

プロタゴラスから、相対主義の誕生

そんな古代ギリシャでは、プロタゴラスをメインとする「相対主義」と言う考え方がうまれた。それは、「考え方は人それぞれ。本当に善いとか悪いとかはなくて、みんな違ってみんないいんだよ」と言う考え方である。つまり、「何を信じるかとか、神様とかも人それぞれだよ」と言う風である。

 

プロタゴラスは、当時、弁論術の指導者としてカリスマ的存在だった。

古代ギリシャでは、民主主義の名のもと、民衆の前で討議大会(例えば「善」について、何人かが意見しあって相手を論破する)が主流だった。いい感じの言い方ができたら、みんなの支持を集めて政治家になれたのである。そしてプロタゴラスはその優雅な立ち振る舞いと、スマートさでとっても人気があった。彼の講義は大人気になり、講義に行って貰ったお金で、船が買えるくらいだったらしい。

彼の相対対義(みんなそれぞれの考え方があるんだ)と言うのは、沢山の人の意見をとるという民主主義と、うまくかみ合っていそうな感じを持つ。しかしながら相対主義にはある恐ろしさがあった。

 

「冷たい水」の捉え方。殺人は悪いことか?

例えば、「冷たい水」についての考え方である。

ある夏の暑い日の「冷たい水」は、触ってみて気持ちいいし、飲んだらおいしい。しかしながらこの夏の「冷たい水」は、北国のロシアの人にとっては「暖かい水」だ。

こんな感じで、ひとつの物について考える時、相対主義を用いると、あたかも逆のようにも言い換えることができる

 

ひとつの議題があった時、たとえば、「エレベーターで屁をしたら罪に問うべきか」と言う問題があった時、多くの人はこれを、「うん!罪に問う!」と答えるだろうが、屁をした本人が、反論で、

「屁は、生物が生まれて以来ずっと続けてきた、排泄にともなう生理現象です。これを数秒でも我慢したら、その代償は大きいですよ

と、人類視点ではなく、生き物全般の視点に立ってものを言ったら、それは確かに納得できそうと思えてしまう。

 

さらに、人殺しについても同じようなことが言えてしまう。

人殺しは悪いことのはずであるが、

「私たち日本の戦国時代には、仇討と言う概念があった。それはかたきを取るために人殺しを正当化する考え方だ。つまり文化によって人殺しは正当化されうる。さらに現代でも死刑と言うものがあるが、これは人が人を殺していることのはずだ。そして死刑囚たちは凶悪な殺人者が多い。罪を償わせるという点でこれはいいことだ

と言われるとどうだろう。さも人殺しが、文化の背景によっては悪くないことのような言い方に聞こえる。

 

こんな感じで、相対主義を用いれば、悪いことでも、あたかも良いことのように見せかけることができるのである。

 

現代にも通ずる衆愚政治ポピュリズム)を生み出した

上のような相対主義が闊歩していた古代ギリシャでは、政治家が「中身が無く、ただ討論がうまくて、民衆に耳触りのいい言葉ばかりを言う政治家」ばかりになってしまった。この政治家を扇動政治家といい、扇動政治家がする政治を、「衆愚政治」という。

いま、アメリカのトランプもその一人である。民主主義が腐敗していくと、必ず扇動政治家が現れて、衆愚政治に陥ることは、歴史のさがらしい。

こうなってしまうと、民主主義の多数決はうまく働かなくなってしまう。

 

クラスで多数決する時はだいたいみんな「どーでもいいから早く終われ」と思いながら投票していると思うけれど、それが国レベルの大きさになってしまったらどうだろう。

「みんながあの人に投票するから私も。」とか、「この前cmで見たから!」とか、「あのおじさんダンディだから」とかみんながみんな言い始めたら、その政治家の中身が分かっていないわけだから、衆愚政治が到来してしまう。

多数決はもともと、「みんながみんな、熱い議論を交わして成り立つもの」なのである。

 

そうしてその時期の、相対主義を学んだ政治家は、皆同じようなことを言うようになった。

「正義を求めろ!抜本的改革だ!」

「本当の善を成す国にする!」

とか、正義やら善やら、人によってとらえ方が大きく変わってしまうものを声高らかに叫ぶだけになってしまった。なぜなら、「人を傷つけないのが善だ!」なんて叫んでしまうと、討論のライバルたちはみな相対主義を学んでいるわけだから、「じゃあ、だれとも関わらずずっと部屋にいる人が善なんだな?」とか、「君は私をこの前の討論で傷付けたが、君に従えば君は善じゃないね」と言う風に言われてしまう。

当時の政治家たちは、論から逃げ、すきを見つけたら突くのだけがうまいものたちになってしまった。

 

 

 まとめ

プロタゴラス相対主義のせいで衆愚政治がはびこったみたいな言い方をしてしまったが、ぼくたちが相対主義から得られるものは大きいのである。

十人十色。みんな違ってみんないい。

本当に大切なことは人それぞれだという現代の哲学みたいなことが、2000年以上前に既に言われていて、そしてそこでは民主主義の政治があったなんて、すごいと思うけれど、同時に、2000年の時を経ても、ぼくたちはあまり学んでいないのではないかと悲観的にも取れる。

 

この取り方自体も相対主義だ。

相対主義は、あらゆるところに溢れているのである。

 

以上。

ユヴァル・ノア・ハラリは現代のフッサールなのか?哲学的視点から考えた「サピエンス全史」と「21 Lessons」の考察

 

今回は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の書いた、「サピエンス全史」について記述する。

このような社会風刺的な作品がヒットする社会と言うものは、至極、残酷な世界である。

 

往々にして、哲学書や、生きることに対するお話がヒットする時代と言うものは、人々の社会に対しての不満が大きくなっている年である。

例えば、トランプ当選の年などには、ジョージ・オーウェルの「1984年」という、全体主義的世界(ざっくりといえば、行き過ぎた共産主義や、独裁国家)を批判する作品が、大きく売れた。

そして今回は、筆者が気づいた、ユヴァル・ノア・ハラリとフッサール(1900年ごろの哲学者)の共通点についての回である。

 

 

 

ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」のだいたいのあらすじ。

今回の作品は、「人類の進化は、虚構のおかげだ」と言うものである。

大昔の地上には、ホモサピエンスや、ネアンデルタール人などの人種が蔓延っていたが、その中で、生き残ったのは、私たちホモ・サピエンスだけである。

そしてその理由は、ホモ・サピエンスのみが、虚構を信じることができたからだ。

これが本書の大筋である。

もう少し砕いて言えば、沢山の人種がいた中で、ホモ・サピエンスだけは、嘘の話をつくり、それに対して吟味し、仲間内で「分かる~」とか、「なるほど!」とか平気で共感できたから、その他の嘘が吐けない人種を欺いたり排斥して生き残ることができたよ。

と言うものである。

 

この世界が虚構(嘘でできている)理由。

その理由とは、現代横行している科学と言うものは、誰かが定義を決めてそれに準じたものであるが、その定義自体が嘘なので、科学は嘘である。と言った形である。

例えば、イギリスでは、メートル法と言うものを使っているが、アメリカではヤード・ポンド法と言うものを使って距離を測る。しかしながら、双方とも距離の単位である。どちらかが正しいのではなく、どちらも正しいが、同時にどちらも嘘だと割り切れる。

国境と言うのも、誰かが勝手に決めたものだから嘘。さらには、社会と言う概念も、目には見えないから嘘。紙幣も、もとをただせばただの紙切れであり、嘘。

私は常々、嘘をつく人で溢れている社会なんてひどいね。なんて思ってはいたものの、そんな大昔から嘘をつくことが当たり前の社会にいたのであれば、それは仕方のないことだと言ったようなものである。本書に至っては、社会と言うものすら、嘘だと断言しているから。

 

「サピエンス全史」を読んで、疑問に思ったこと。反対意見。

ここからは私の勝手な解釈である。

サピエンス全史を読んだのであるが、私は、本書はかなり哲学書的な側面を持っていると考えた。と言うより、殆ど哲学書である。 

 

このサピエンス全史の内容自体も虚構だという反論

まず、この社会が虚構であるならば、すべての物ごとの抽象的な捉え方は虚構であるということになる。この一点が私は気がかりである。

彼は、宗教は虚構であると言った。では、私たちは、何を信じてこれからの世界を生きていけばよいのか。。。

と、思ったそこのあなた。

 

実は、これと似たような問題に対峙した哲学者が、大昔には、居たため、彼を紹介する。

 

現象学の父フッサールと、バークリーに因る主観的観念論。

小難しいタイトルで申し訳ないが、大昔、いや、今でも、

「机の上にあるリンゴが、本当にそこにあると証明できるのか?」

というひねくれた問いが、哲学ではなされることがある。私が説明したいのはフッサールの論であるが、その前に一度、バークリーの論も説明しておこう。

 

バークリー(1700年ごろ)に因る、主観的観念論とは

大昔、1700年ごろに、バークリーと言う哲学者が居た。そして彼は、この、リンゴが本当にあるのかという問いに対してこう答えた。

「存在するとは、知覚されることである」と。

私たちは、

「机の上に、物理的に本が置いてあるから、存在するんでしょ?そいつは僕が部屋を出て行ってもなくなることはないし、ちょっと目を離したすきに足が生えていなくなることもないでしょ。だって、そこにあるんだもの。」

と言いたくなるのは分かるのであるが、彼は、

「そこにそのものが、物理的にあるから僕らが触ったり見たりできるんじゃなくて、僕らが触ったり見たりできるからそこにある(存在する)んでしょ?」

と言い始めた。

みんなは子供の時に、「部屋を出たときに、ほんとにその部屋はまだあるの?見えてないのに」と、思ったことは無いだろうか。

主観的観念論とは、そういった疑問を突き詰めた結果得られた答えではあるが、この、問いを拡張していったときに、ある疑問が生まれる。

 

「僕は、幼稚園のすみれ組である。昨日はおねしょをして、お母さんにしこたま怒られた。今は、幼稚園にいる。そして今まさに、便座に座っておしっこをしようとしている。しかしながら、もしこれが夢であった場合、またお母さんに怒られることになる。僕は早急に答えを出さねばならぬ。」

 

こういった時に、そこに便座はあると知覚しているのは確かである。尿意も感じている。しかしながら、私が、そこにいるということは分からない。トイレの個室を出たらすぐそこにサバンナが広がっているかもしれない。

ここで現れるのが、フッサール先生である。

 

フッサールに因る、現象学を作るまでのお話し。

フッサール先生は、すみれ組にいるあの生徒がトイレから30分も帰ってこないのが気になって、トイレに様子を見に行った。

先生は言う。

「ねー。もうお昼寝の時間だよ。トイレ大丈夫?」

僕はすかさず。

フッサール先生、僕、考えてたの。もしさあ、この僕がここに存在しなかったらどうする?例えば、これが夢だとして、朝起きたらおねしょしててお母さんに怒られたりするのはもうころごりなの。どうしよう先生?」

「僕ぅ~。大丈夫?それは、この世界が、夢だったらどうしようってこと?例えば、自分は実は別の世界で、マトリックスみたいに培養液に浸されて、AIに熱を与えて生きているってこと~?」

「そうだよ先生。マトリックスみたいな感じ。この世界が全部嘘うそで、気づいたら、向こうの世界で瓶詰めされてコードがつながれてるの~」

するとフッサール先生は表情をいきなり凍り付かせた。トイレのドアの向こうにいる僕も、先生の剣幕は驚くほど伝わった。僕はちっぽけな脳みそをフル回転させて考える。(いけない。聞いてはいけない質問をしてしまったようだ。場を和ませる必要がありそうだ。其れとも、すぐにおしっこしてここを出るのがいいのか。しかしそうすればフッサール先生のお叱りを受けるのは目に見えている。どうするべきか。)30秒ほど経った後で、もじもじと尿意に耐えかねた僕はまた言葉を放つことにした。

「先生~。これ、夢なの~?どうなの?早くして、もれちゃう!」

「下らん質問は聞き飽きた!用を足して早く出てこい!」

 

フッサールの論は以上である。

阿保臭い茶番が長引いたことは、申し訳ないが、この論を難しく言えば、

「僕は、実は別の場所に居て、脳みそだけ抜き取られて生命維持用の培養液に漬けられているとしたら?これはすべて夢なのではないか?」

こういった質問に対してフッサール先生は、可成り率直に答える。

「そんなこと考えても、(向こうの脳みそだけの世界で意識が戻ったとして、その世界で、もう一つ向こうの世界があってそこで僕は脳を浸けられて…)という無限ループを繰り返すだけであり、証明不可であるから意味がない!!!」

 

其れと同じように、以下のような質問があったとする。

「この世界で使われている定義とか、ニュートン力学とかって本当に正しいんですか?」

フッサール先生は、これにも即答である。

「それらは思い込みである!!!!」

 

フッサール哲学では、この世の物理法則(科学)やら宗教などは、思い込みである。

もし私たちが、別の世界の培養液に浸されていたとしても、「リンゴがおいしい」と知覚することは、その夢の中の世界でも思っていることなので正しいことである。

こうした考えから、フッサールは、意識体験したもの(現象)を、私たちはどうやって物理法則などの思い込みに発展させていったのか。という学問体系、すなわち現象学を作り上げることになるが、

 

この、現代の力学などの定義が思い込みであるということを問うた結論は、「サピエンス全史」の結論とかなり似ているのではないか。

  • この世のすべては思い込みでできている。
  • 考える必要のないことは考えない。

そして、フッサールは、自分が主観的に意識できたもののみを正しいと考える。この点も、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書である、「21 Lessons」最後のレッスンで出てきたように、「内省すること、自分のことを分かっておくこと」に似ているのではないか。

 

まとめ

ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、可成り世間では取りざたされているようであるが、同じことを考えた人は、探してみれば割といるものである。

特に、フッサールは哲学者としてその道を究めた人であり、その考え方を人類進化に応用したユヴァル・ノア・ハラリ氏も凄いのではあるが、もしかしたら、人類は、この2000年間で言うほど進化しているわけでは、無いのかもしれない。

 

失礼する。

 

 

 

引用: 飲茶著(2015) 史上最強の哲学入門 河出文庫

 

若者のおしゃれな着物の着方について。女性着物を男が着るのはいいのか

着物の着方には、様々な作法がある。

何々流などと分かれてはいるものの、殆どの基礎の部分は同じである。

 

さて、今日書こうとしていることは、先日、私が旅館に泊まった時のことである。

 

 

女性着物を男性が着ることについて。着物の着方について。

私は、着物と言うものを、二着持っている。一つは「大島紬」まがいの、安物である。きめは細かくできているものの、古着屋で買ったものであるから偽物であろう。古着屋の亭主は、「大島紬」と高らかに連呼していたが、高級なものには偽物が出回ってしまうことは、仕方のないことである。

 

もう一着は、苔むしたような深緑のものである。私はこちらを気に入っている。たまに、ワイシャツの上に、こちらと一緒に買ったウールの翡翠色の羽織をかぶせて出かけることも有る。

この緑の着物は女物である。そして、古着である。

学生身分、普通の着物を買うほどの余裕もなく、いつも古着にお世話になっているものの、古着では、私の丈に合う着物にはお目にかかれないことも事実である。

そういった時に、私は女性ものの着物を着る。もちろん胸のあたりに余裕があるものが多いために、その部分は自分で縫ったことも有れば、安全ピンでとめ、帯にしまうことも有る。

 

旅館での忘年会での、仲居さんとの会話

部活での忘年会が、旅館であった。私の部活は、可成り大人数であるから、社会人のように、旅館の一室を借りて忘年会を行う。

私は、毎年のごとく、きらめく湯に光る桶をみて、三島の「仮面の告白」を思い出す。そして私の少年時代を思い描くが、残っているものは殆どないことに、多少の罪悪感すら覚えて、風呂を上がった。

旅館によくあるタイプの、男女兼用の、安く、フリーサイズとでもいうのだろうか。着物の概念から大きくかけ離れた、浴衣といっていいのかも分からないような、クズを身に着ける。

しかし私は、帯を結びたくはなかった。腰ひものような安っぽいものを身に着けていることが、恥ずかしかったからである。

浴衣まがいのそれを、寝巻の上にガウンのように羽織って宴会場に行った。する仲居さんから一言、

「帯ぐらい締めなさいよ。あなた。」

私はこの時ぺこぺこ、辟易しながら「すみません」と言って、しかしながら内心は煮えくり返っていた。私はその仲居の、制服の安い着物の、くりこしのひどく空いてギャルのようになっているのを後目に、席に座った。

 

着物の着方。ヨーロッパでの流行りについて

着物の着方は、日々進化していると考える。ヨーロッパでは、着物をコートのように羽織ることが近年の流行りのようであるが、私は、全世界の人間が、この仲居のような人のために、着物を着る機会も、知る機会も失っていると考える。そして、それが悲しいのである。

私は、太宰治の小説をすべて読むほどに好きであるが、そこから、着物を知り、着物を着るようになった。そして、着物は、知れば知るほど面白いのである。

しかしながら大半の若者、そしてきもの初心者は思うことだろう。

「着物なんか美容師に着付けてもらえれば。」

「なんか怖いし知らないからいいや。」

着物を着ることは、さほど難しいことではないのである。ある程度の作法や、守らねばならぬルールはあるものの、其れさえ守れば、誰が着てもスーツのようにびしっと決まるものである。

私は、敢えて普通の服の上にコートのように着たりはするものの、それは、可笑しいことだと知っていてやっているのである。ここを知らないと知っているとでは大違いであるが、いわゆるステレオタイプの古い人には、こういった着方を許容するような精神が無いことが、甚だ小さいというか、残念である。

 

まとめ

私は、もっと多くの人に着物を着てもらいたいし、知ってもらいたい。そして、私は雪駄よりも下駄派ではあるが、そういった履物類も知ってもらいたいし、みんなに履いてもらいたいのである。

出る杭は打たれる。

 

そのスタイルはすでに、古いのではないか。