太宰治『人間失格』のあらすじ考察、聖書とのつながりとは?聖書の簡単な説明も。
私が初めて太宰に触れたのは、というより、文学に触れたのは、高校卒業の時であった。
周りの文学少年達からいえば、かなり遅かったのは言うまでもない。それから、少しずつ、彼らに劣れり勝れり文学に、どぷりどぷりと浸かって行った。
なんてお洒落なイントロ書いてみました。柄じゃないのでやめますチョコブーです!
今回は、太宰治について、そして最大の人気を誇る作品である『人間失格』についての考察になります。
『人間失格』と漱石の『こころ』
人間失格といえば、新潮文庫で、夏目漱石の『こころ』と長年最高売上において対峙する、ライバル的存在であります。
私は、こころも十分に好きですが、太宰治の人間失格を初めて読んだ時の衝撃たるや、こころも十分に衝撃的な作品ではありますが、比にはなりませんでした。
さらに、人間失格には、ところどころに人間の弱さをつらつら書いているために、共感がしやすく、しかしながら
『自分は葉蔵よりはマシな人生だろう。がんばろ。』
と言う形で人生に希望を与える書であります。
漱石のこころが、中高所得者向けだと言う点に対して、太宰の人間失格は、かなり中低所得者向けの、庶民派の内容であり、誰でもそれになり得る危険を孕んでいる、『貧』に一つの焦点を置いた作品であることから、かなりのヒット作であることは明白です。
漱石のこころでは、主人公は大学生であり旅行なんかに行って別荘でくつろいだりする。さらに冒頭では、あの時代に外人が居てもなんの違和感もないくらい治安が良く、高所得者の集まったビーチから始まっている。
金の問題はなかなか出てこないんですね。
生まれたときからの坊ちゃんが、世間にもまれながらも、Kという恩人であり先生をたまたま見つけて、その人生に浸っていく話であり、矢張り漱石的な、高等遊民らしさがにじみ出る作品なのです。
人間失格のあらすじ
人間失格では、生まれたときは裕福な家庭にありながらも、その裕福さをうまく享受することができない人間が、女をひっかけて、クズのような人間にその女を蔑まれ、二人で心中しようとして自分だけ失敗し、実家からは勘当されてしまいます。
その後さらに別の女の家に逃げ込んで、その家も何も言わずに出て、バーに通い他の女をひっかけて、酒中毒、煙草中毒、薬物中毒と少しずつひどくなっていく。最後には、何も考えることができなくなってしまうという作品です。
私は、この生活よりは、ましな生き方ができている。そう思えませんか?
人間失格、また太宰の文体の特徴
人間失格を読んだ人の中には、
「何を言いたいのか分からない。」
「ただの屑の甘ったれの話。」
「くどい。」
「だらだら段落なく長い箇所が目立って途中でやめてしまった。」
そういう意見の人もかなり多く見受けられますが、それはすべて、太宰の筆のスタイルなのです。彼は、文筆の師として、「黒い雨」や「山椒魚」で有名であり、ノーベル文学賞候補となった井伏鱒二を慕っていました。彼の文体の特徴は、庶民の(特に中低所得者の普段の)生活を良く見て、冷静に描写し、更にその中に物語をつぐんでいくというものでした。
太宰の文体にも、この共通点があるのではないでしょうか。
さらに、太宰は、外国文学の日本語訳をかなり読んでいて好きな外国文学作家の中に、ドストエフスキーや、コクトーを愛読していました。
そう。彼の文体は、ドストエフスキーに酷似しています。彼の特徴は、
簡単な文で、分かりやすく、しかしくどく長く、誰にでも分かる文章でありながら、どこか悲しいし自虐的。
ドストエフスキーを読んでから、太宰を読み返すと、なかなか沢山の発見があるのではないでしょうか。
まずは、聖書の超簡単な説明から。
私は、聖書を読んだことがありません。
と言うより、聖書を買って、読んでみたのですが、なかなか面白く、しかしちょっと長すぎたため、旧約聖書の途中で放棄してしまっているというのが正しいです。
聖書自体は、かなり面白い作品ですし、誰でも読めるように、逐一すべての漢字にはルビが振られています。だれだれの子がだれだれで…と言う記述が多すぎて、何とも言えず途中でめんどくさくなってしまいました。
しかしながら、太宰の人間失格の聖書との関連は、面白いものがあります。
とされております。しかし両者の内容は、
旧約聖書は、
ユダヤ人が迫害を受け、救世主が現れるのを待つ
と言う内容であり、
新約聖書は、
ユダヤ人が迫害を受け、救世主が現れるのを待っていた。そこにイエス・キリストが救世主として現れ、キリスト教を全世界に広めようとしてユダヤ教徒から迫害を受けた。(ユダヤ教は、ユダヤ人しかなれない、という宗教であるがために。)ローマ帝国の王により殺害されたが、三日後に生き返った。だからイエスが救世主だということが証明され、ローマ帝国はキリスト教を国教とした。
と言う感じなのです。
人間失格との関連を、お気づきでしょうか。
聖書と人間失格の深いかかわり
人間失格では、
大庭葉蔵という人間が、裕福な家庭に生まれ、しかしながらその裕福さの中に、何か生き辛い感じをいだいていた。
彼は幼いころから、女に囲まれて生きていたが、女ほど、分からないものはないと言って、女を阿諛して一生をつづった。
葉蔵は人間生活の苦難を感じて、薬物や酒に逃げた。
最後、葉蔵は完全に、精魂ない人間になってしまった。
そしてバーのマダムは言った。
葉蔵は、「神様みたいないい子」だったと。
ここで、葉蔵はキリストであるという構図にお気づきでしょうか。
大庭葉蔵という人間が、裕福な家庭に生まれ、しかしながらその裕福さの中に、何か生き辛い感じをいだいていた。
彼は幼いころから、女に囲まれて生きていたが、女ほど、分からないものはないと言って、女を阿諛して一生をつづった。
ここで、葉蔵がキリストだとすると、作中の「女」とは、聖書の「ユダヤ人」です。キリスト自身、ユダヤ教徒であり、将来敵対するものに囲まれて育ちました。
葉蔵は人間生活の苦難を感じて、薬物や酒に逃げた。
最後、葉蔵は完全に、精魂ない人間になってしまった。
キリストは、国に追いやられ、最終的には十字架で処刑されてしまいます。
そしてバーのマダムは言った。
葉蔵は、「神様みたいないい子」だったと。
ここで、キリストは三日後に生還します。太宰が人間失格を書いたのは晩年ですから、生還することを望んでこの文を書いたのかもしれません。
太宰は聖書を読んでいるか?
実は、太宰は、聖書を熟読しています。
太宰は、一回目の情死に失敗してからと言うもの、聖書にかなり傾倒していたようです。
矢張り、心苦しい部分が、そうさせたのでしょう。
まとめ
太宰の聖書とのかかわりを紐解いてみました!
なんだかまた読みたくなってきました。
では!